法 話
(173)「
|
![]() 大府市S・E氏提供 |
【原文】教科書にも出てくる有名なフレーズ
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。 (『歎異抄』第三章)
【現代文】
善人でさえ救われる(往生を遂げる)のだから、まして悪人はなおさら救われる。ところが、世間の人は常に「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさら救われる」
と言っています。この考え方は一見それらしく聞こえますが、 阿弥陀仏が本願をたてられた趣旨にには背いています。
越後の生活で親鸞聖人が出会われた人々は「いなかのひとびと」でした。いなかの人々は、
例えば、食べなければ死ぬという身の事実において、自分が行き続けているということは、他のいのちを殺し続けているのです。親鸞聖人は、自分もまた罪の自覚と無縁に生きていた身の事実を、いなかの人々から教えられたのです。そして、
私たち現代人は、科学の発達とともにこの身の事実を忘れて、その日暮らしを送っているのではないでしょうか。この事実に気づいたとき、「いのちの、
他力の信心うるひとを
うやまいおおきによろこべば
すなわちわが
親鸞聖人・作『
越後に流されて5年、1211(建暦元)年11月39歳の時、親鸞聖人は法然上人とともに罪を許されました。しかし、それもつかの間、翌年1月25日に師法然上人が世を去ったという悲報がもたらされました。そのためもあってか、聖人は京都には戻らず、1214(建保2)年42歳の時、妻子とともに関東の地へと旅立ちました。途中、
そのころ、関東一円には飢饉が広まり、人々は地を這うようにしてその日その日の命をつないでいたといわれます。そして力尽きた人々が次々と倒れていったのです。その姿から目を背けることのできなかった聖人は、ただひたすら経典を読誦して、世の平安を祈らずにはおられなかったのでしょう。
しかし、どれほどいとおしみ、
その後聖人は、上野国から
合 掌
【次号へ続く】
《2015.8.3 前住職・本田眞哉・記》